いのちをけすというのは、つらいこと。
秋花の大事な友人が、亡くなりました。
私は2、3回しか会ったことがありません。
でも、彼女の話は何度も聞きました。
とても良い友人であったことは明白です。
どういった理由で亡くなったかは明記されていませんが、おそらくみずから……。
偶然ですが、亡くなった日の前日に、私はTwitterで彼女をフォローしました。
(フォローとはリンク機能のようなものです。詳しくはお調べ下さい)
フォローした理由は彼女が有益な情報をつぶやいてくれそうだなと思ったから、というもの。
多分、彼女は私がフォローしたことを知らないでしょうね。
そんなことはどうでもいい。
私は、秋花にできることをしたい。
でも、一体何ができる?
昨日、秋花と近所で昼食して買い物をした。
話す内容は普段と変わらず、くだらないこと。
誰しも「死」とは受け入れがたいものだ。
友人の話をして、秋花の思いを吐き出させた方が良かったのかも知れない。
でも、出来なかった。
受け入れられない「死」を他人に報告するというのは、相当な苦痛を要する。
秋花がすでに受け入れたとしても、こちらから話題を促すべきではないと思った。
「死」を悼む気持ちは、そう簡単に他人に吐き出せない。
何年経っても、受け入れられないこともある。
どうにかして受け入れる努力をする必要もないんだ。
秋花に何をすべきかわからない。
なにかをすれば彼女に良いのか。
なにをしても変わらないのか。
ただ、今の私に出来ることといえば、愛しい友人の友人に対して、哀悼の意を捧げることだけである。
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